自分はあまりにも物を落とす人間かもしれない。他人が1日に3回物を落としたなら、私は6回物を落とすと言ってもいい。さらに私は高価な物であればあるほど落とす謎の習性があるらしい。もう人生で何回スマホやゲームを落としたのかわからないが、おそらく現時点で三桁台までいってるのは確実だろう。
それにしても、物を落としたことによって人生のタイムロスが尋常じゃない。昨日もワイヤレスイヤホンケースを盛大に落とし、中身を盛大にぶちまけた際、イヤホンは重い台座の真下まで飛んでいった。私は、その台座を移動してまでイヤホンを取るのに数十秒かかった。その数十秒で何かをするわけでもないのだが、落とした物を探して拾う時間ほど無駄で虚しい時間はないと思っている。周りに大勢の人がいる中、自分だけ屈んで下を見るという異質な行動をして、他人から目立つのは精神的にくる物がある。
しかしその代償と言ったらいいかわからないが、私の周りには親切な人間が多い気がするし、理不尽に怒鳴られる人も全くいない。そう考えると、私は物を落としまくる代わりに理不尽に人に怒られづらくなるという悪魔との取引を胎内で行なっていたのではないか。
何度も言うが私の物を落とす回数は異常だ。自分はどんな有機体も必ず落としたことがあるとまで言えるくらい物を落とせる。持ち物には申し訳ないが私に手に取られたら運の尽きで、この彼らは頻繁に落とされまくって他の持ち物よりも早く品質が劣化して壊れると言う運命をたどることになるのだろう。それどころか私は念能力を使ったかのように一切自分の手を加えずに物が落ちることまである。これに関してはもう自分の「触れたもの全てを落とす」という能力を制御できずに、手に触れた瞬間に呪力が物に宿ってしまい、持ち物に「自分は床に落ちる」と言う自我を芽生えさせているとしか考えられない。
そんなこんなで私が記憶しているものの中で物を落とした回数は二十歳の時点で30000回突破している自信がある。これは記憶しているもののみなので、普通にもっと多い可能性があるのが怖い。
なのでもしもこんなに物を落とす私が物を全く落とさなくなったら、私の周りの人間は一斉に私に対して牙を向け、理不尽に罵詈雑言を受ける機会が増えてしまうかもしれない。
物を落としまくること自体はあまりにも鬱陶しいことだが、人に理不尽に怒鳴られるのも勘弁だ。そう考えてみると人間はそういった釣り合いによって成り立っていると考えていいのかもしれない。自分はずっと不幸だと考えている人間も、本当はその人のプラスと言える側面があるのかもしれない。
私はずっと不幸な人間はいないと思っている。ずっと不幸な人間にも必ず輝いている時期があるはずだ。その輝いている時期があまりにも輝きすぎていて他の人生が不幸であると言う可能性が高い。どんなに売れたミュージシャンやラッパーも他の事業に手を出して自己破産を申請するほどに凋落する。そうして意味では一生幸せと思える人間は存在しないのだ。金持ちの両親の間に生まれて、一生を親の金で暮らした人は、自分では一生幸せに思える人かもしれないが、他人から見たら見てて可哀想、惨めと思われているかもしれない。昔は貧乏だった芸能人が今を振り返って、「私は昔の生活に感謝している」と思うこともある。そうしたことを考えてみると、全人類が幸福と思える瞬間は1秒たりとも存在しないと断言できる。
人はそうやっていい感じに均衡をとっている。無味無臭の人生を送れた人間なんて存在しない。要は幸せのアンテナを今より強く張ればいいのだ。自分が不幸のどん底にいると思っている人ほどなおさら張るべきだと私は思う。