それはバイトの時だった。上司が作業部屋に入ろうとドアを開けたら作業台のようなものとドアが接触した。それを見た上司が一言「ごめん」と言うと私は「大丈夫です」と返した。その後上司が退室しようとすると、私が置いていた作業台のせいで場所が塞がれ、上司は「これじゃ出れないな」と独り言らしきことをいう。それを見た私が一言「すみません」と言うと上司は「大丈夫」と返した。その間の時間はおよそ30秒だった。私と上司はその30秒の間に過失と謝罪と容赦を互いに行ったと言うことになる。
謝罪と言う思いは本当に心から申し訳なく思った時に緊張感を持ちながらする行為であるはずだし、容赦は相手の過失を心の底から許せると思った時に相手に安堵感を持たせるためにする行為であるはずだ。
しかし今回は以上のような思いなど皆無に等しい、というかそんなの考えてる暇がないと思えるほどに無味無臭な謝罪と容赦が行われた。実際私は上司がドアと作業台をぶつけた時も特にそれと言った感情もなく大丈夫ですと言ったし、私が道を塞いだ時も「あーやっちゃった」くらいの思いですみませんと言った。おそらくそれは上司も同じ感情だったのだろう。私も上司もやらなければならないタスクがあるためいちいち怒ったり気にかけたりする暇なんてない。
もしもドアのぶつけた先に私が立っていたり、道を塞がれた結果トイレに行けず決壊したりした場合は、お互いより深刻に謝罪をするのだろうし、お互いより熱心に容赦するのだろう(後者の場合はどんなに謝罪しても許してもらえない可能性があるが)。
コミュニケーションの維持のために必要な謝罪と許しをこんなにスムーズにスマートに省略することができるのもまた時代なのかなと個人的に感じている。否、これに関してはお互いがお互いに関心がないだけじゃないかとも思う。
それにしても私は理不尽に他人にキレられまくる人生を送ってこなかったため、そろそろ理不尽に怒られてくれないと社会に出た時にすぐにノックダウンしてしまう可能性がある。都内を徘徊しても私を理不尽に怒ってくれる人は見当たらない。もしあるとしたら電車で座ろうとしたらおっさんが急に横入りしてきたくらいである。
元々自分は他人から怒られないと言うステータスがあると考えることもできるが、そのせいで私は理不尽に怒られた時の耐性がほぼない。さらに飲み会で他の人が理不尽怒鳴られエピソードを羅列する中自分はそう言った経験がないからただ愛想笑いを浮かべることしかできない。会話をするのは好きな方なので自由に話す余裕がないのは自分にとって非常に辛いことなのだ。
そう考えてみると、ちょっとぶつかってきただけで妹を⚪︎されたかのようにブチギレてくる人たちは本当はいい人達なんだろうなと思う。人とぶつかっただけという人生の毒にも薬にもならない(毒多め)部分を誇張して、それすらも自分の思い出に残させようとしてくれるのではないのだろうか。人にぶつかられて謝られただけだと、自分はただぶつかられて痛かったというデメリットしか残らない。でもぶつかられてブチギレられたというエピソードを友人や両親との会話のネタにすることで、ぶつかられたのがメリットになり得るのだ。人生はスパイスがあればあるほど味がありいい人生になる。卵焼きやとんかつの切れ端が一番美味しいのと一緒で、人生の切れ端(人生の中で一切語る価値のない部分)も、本当は味が濃かったり、脂が含まれたりする可能性がある。理不尽怒鳴り人はその切れ端の真価を気づかせてくれる重要な存在なのかもしれない。

私はこれからは理不尽にブチギレてくれる人を見たら、人生にスパイスを振りかけてくれるカレー職人と思うことにする。たくさんスパイスをふっかけられてインド人もびっくりのスパイシーなカレーを作って欲しいと思う。そしてこんなの食えるかボケとカレー職人の頭にぶっかけたいとも思う。
たまにはコクやまろやかさを出すためにミルクやチョコレートも必要です。