自慢できることではないが、私は他人と比べてもよく食べる方の人間だと思う。他の人が「もう食べれない」とギブアップする中でも私の胃のキャパシティーは他の人の三倍ほどあるからまだまだいけるという自信があった。相手がケーキを一切れ食べたら自分はそれを三切れ食べるし、相手が500mLのペットボトルでジュースを飲んでいたら私は1.5Lのペットボトルで飲み干していた。
しかし今となってそういったことをするのにかなり抵抗感を持つようになった。健康や金銭の面もあるが、一番嫌なのは客観的に見て自分がはしたなく写っていないかという懸念である。私は所謂、暴飲暴食は人目のつかない場所でこっそりかつ豪快に行う。誰にも見られていないからたとえ食べ物を床にこぼそうが油で服を汚そうが全て自己責任になるため、とても気を楽にできる。それでもどうしてか時々そんな状態にいる自分に愚かさを感じるようになった。
私の暴飲暴食は小学五年生の時、スーパーに売られていた魚肉ソーセージ3本を焼いた時から始まった。まさかそこからどうして唐揚げ1kgや焼肉10人前に発展することになったのか、それだけは自分にも理解できない。魚肉ソーセージ3本で満足していた頃よりも、後先考えずに数千円払って肉を焼いたり揚げたりして限界まで食べて食べきれなかったらタッパーに詰めて後日いただく今の方が子供じみていて愚かしいことではないか。そう気づいたのは三ヶ月前だった。そしてその三ヶ月前についに、「必要以上のドカ食いはやめよう」と決心するようになった。
最初は誘惑も多くてまた前の生活に逆戻りする危険性もあったが、それは商品の裏にある食品成分表を見ることで現実を叩きつけて回避してきた。最初は週三、四回ほどの暴飲暴食を週一回に縮めることもできた。ジムにも通い始めて、いく頻度も着々に増え始めている。一般的にいう「健康優良」な人にはまだ及ばないが、健康的な人間にはだいぶ近づいていってると個人的には感じている。
しかし、今日西友に行った際、メンチカツやコロッケがバラ売りされているのを見て、私は「欲しいな」と思ってしまった。要因は、ケース越しに並べられているメンチカツを、肉屋のメンチカツのような売り手の愛情や風情が相乗されている代物と錯覚してしまうのだと思う。その当時の私ってどんな顔だったのかはよく覚えていないけれど、まぁ多分間抜けた顔で無心にケースを開けて揚げ物をタッパーに詰めていたのだろう。
家に帰るまでは「美味しそう」と思っていたが、いざ帰ってタッパーを開けて食べてみたら、世界は−180度変わった。スーパーの揚げ物というのは酸化された油を使用していたり衣の量が多かったりしていて、メンチカツ5個とエビフライ2本、コロッケ5個を買ったが、現時点でメンチカツ4個とエビフライ2本しか食べることができなくなっていた。油のキツさによる不快感と同時に、なぜ自分は今までこんなものが好きだったのだろうと疑問を抱くようになって、揚げ物を食べているとは思えない寂寥感を感じ始めた。きょうのできごとを通じて、自分はもう2度とスーパーで惣菜を買うことはないのだろうなと感じた。
24時15分ごろ、ようやくスーパー惣菜を完食した。どうしても最後までギトギトした油を好きになることができなかった。どれほど水を飲んでも口の中の健康を害する酸化された油の後味がこびりついていた。その日だけ初めてマウスウォッシュがスーパーマン並みの救世主のように思えてきた。
それにしてもこんなにも辛い思いでスーパー惣菜を食べたのは初めてである。長い間続いた健康志向の食生活で舌が変わり始めてきたのだろうか。しかし私は子供の時それらを母親にねだるほど必要としていた時期があると考えると、私の人生における娯楽の選択肢がまた一つ消滅したことになる。私は今から子供の時からずっと娯楽の最前線においていた「惣菜」に別れを告げる時が来たのかもしれない。これが客観的にみたら前進しているかのように見えるが、私にとってはそうとも思えないかもしれない。健康という私が今まで体感したことない状況になるために長年連れ添ってきた習慣を破棄するのも私が今まで行ってきたことを自ら否定しているようでどうももどかしい気分になる。もちろん今後一生惣菜を食べないということにはならないかもしれないが、今まで連れ添ってた愛人のようなものを捨ててしまう、それどころか視界にも入れたくないと軽蔑するようになってしまう人生をこれから訪れるとなると、私はどうしても嫌な気持ちになる。元カノを忘れられない人ってこんな気持ちなのだろう。
しかし、ふと今日食べた惣菜によって私の価値観が変わったのだから、それを好転的な出来事と思うことで、太古から提唱されて来た考えにおける幸福には着実に近づいていっていると実感することができたのではないか。あぁそう考えればだんだんよしと思えるようになってきた。人生100年と仮定して、5分の1の段階で揚げ物を意図的に避けるようにしようという結論に到達できたことで、残りの5分の4の人生は健康的な体と精神で過ごすことができることがほとんど確定した。終わりよければすべてよしという小学五年生の時からぼんやりと覚えている言葉の根幹をようやっと理解することができるようになったと感じた。まだ終わりではないが、始まりつつある終わりの中で、自分の人生を素晴らしく終わらせるために、明日も自分に付きまとう顔の脂肪を力強くつまみながらジムへ向かう。