大学の履修科目の課外活動で美術館を見て周り、そこで自分が何を思ったのかをレポートで書くという課題があった。私はこれが大学生の授業の中で一番好きだった。もともと私はアートを見るのが好きで、高校生の頃は、自ら美術館の展覧会に行ったこともある。しかし東京はいちいち移動のために満員の電車を利用しなければならないため、行きたくとも丸の内線や東西線を経由してまで美術館に行く気力が湧かなかった。そうして私のアートに対する熱は日々冷めていく一方だった中、自分が履修した授業の中で、特定の美術館の見学に行くと知って、また自分の中にあったクリエイティブの脳みそが震われる時が訪れたと感じた。やはり私は物事を強制された方が潔く動く人間なのかもしれない。私は勉強しろと言われたら2時間やったし運動しろと言われたら腹筋を100回やっていたような命令待ち人間だった。他人から強制されないと動かなかった私の心理を暴いていたかのような策略的行動(絶対そんなわけない)だったのだろう。

 とはいうものの、美術館見学がある日は決まって、何でわざわざ大事な休日を大学のために費やさなきゃいけないんだよと半ギレ状態で美術館まで行っていたが、いざついてみるとまず美術館の見た目に圧倒される。いかにも美術館と思わせるようなモダン、またはユーロピアンな見た目をしている。美術館の見た目から美術における図形の重要性や美しさを訴えかけていると感じさせてくれる秀逸さ。それを見た時に私の満員電車による疲労は吹っ飛ぶのだ。これは自分だけだろうか。ご飯食べて疲れが吹っ飛ぶ人はよくいるけど建物見て吹っ飛ぶ人間ってそうそういないから私一人だけそんな癖を持っていたのならそんな変な感性持ってごめんなさい。

 それに、こんなスタイリッシュな外観の建物の中にどれほどエキゾチックな異質物があるのかしらと言った想像も掻き立てられる。よくよく考えてみると美術館は外観からすでに芸術作品になっている。人がどこか美術館に行きたいと思った時、美術館の外観による第一印象から、この美術館の良し悪しが決まるのではないか。建物は美術館が所有している中で最も高価な芸術作品なため、その美術館の外観が魅力的じゃないと、その時点で人は美術館の作品にもそれほど魅力的な作品はないだろうと思い込むようになるのではなかろうか。それとも美術館のオーナーがアーティスティックな感性を持っていて(それは美術館のオーナーなら当然持つべきだとは思うが)、どうせなら見た目も美術館の収蔵作品に引けを取らないスタイリッシュな見た目にしようとしてそう言った現代、古代の美学に則った外観の美術館になったのだろうか。どっちもあり得そう。

 話を美術館見学に戻そう。私は美術館の作品を通じて、多角的な観点や想像を膨らませる力を養うことができた。というのも、美術館見学が終わった後に、1500文字ほどのレポートを大体三週間後までに提出しなければならなかったので、たとえ自分が見た作品の意味が何も分からなかったとしても、何を思い感じたかを必死に捻出して書き出さなければならなかった。それは正直一番面倒だった。何を見て感じたかと言われてもただ人や木がくねくねしてたりただ無数の線が引かれただけだったりの現代アートを見て何を思えば良いんだよと言った思いがレポートを書いてる時は浮かんだ。それでも書かないと単位をもらえないから、無いなりの発想力を使って何とかレポートを書き上げる。そのレポートの内容というのが、多分作者の意図を汲めてない出来合わせの文章で、特にそれらしいことも言えてないお粗末なレポートだった気がする。しまいには展示会のコンセプトについてタラタラと私見を述べるなんてこともするようになった。でもそんなことを3回もやったものだから、物事の新視点を見つけ出す変な能力が無意識のうちに身についてしまったのだ。

 多角的な視点と想像力に関しては、私はよくわからないコンセプトのアートを見ると、すぐに自分にはわからない代物だと諦めてしまっていたが、今は自分が見ているアートの意図を理解できるまで決してその場から立ち退かなくなるほどに熟考するようになった。それでもわからなかったら多分制作者の意図を無視した自己流の考察を始める。そこには製作者の歴史的、文化的背景を鑑みるリスペクトみたいなものはほとんど機能していない。とにかく自分が理解して解決しなければ満足できなくなってしまったのだ。そんなんで良いのかと思われるかもしれないが、私が行った展示会の製作者がわざわざ私の脳みそに介入して「それ違うよ」て指摘する暇なんてないだろうから、私は私の脳みその中で情報を補填している。それにそう言った筋違い考察を行った後にやっぱり正しかったのか不安になってしっかり調べているから、永遠に私の脳内に間違った作者の意図が遺り続けるというわけではないので安心して欲しい。

 ついでに言うと、自宅から美術館までの距離がだいぶ近いのも良かった。電車内も空いてることが多くて変にパンパンの人だかりに飲まれる必要がなかったのも良かった。というかこれが個人的に一番恐れていたことだったからそれが解消されて美術館に行く機会というのがグンと増えたことを教授、そしてその日電車をあまり利用しなかった人たちに感謝したい。

 以上から、美術館見学は私にとってだいぶ貴重な経験になった。想像力が豊かになったと言って仕舞えば、それはとても有用な武器に聞こえなくも無いので、そう言った能力を手に入れられて良かったと思う。

 それにしても今後私の人生のステータスに「頑固」、「奇天烈」、「怠慢」といった言葉が入ってしまうのだろうか。もしそうなら私が人付き合いをできる確率は低下してしまうだろう。でもそんな時は美術館に行って鍛えられた想像力で寂しさや虚しさを埋めるのだろう。まぁ、個人的にはそれはそれで悪くない。誰にも邪魔されない爆裂妄想ライフ、誰にも明かされることのない一つの巨大帝国。みんなにもあるはずだ。

p.s. 美術館のゲシュタルト崩壊を起こしてしまったらごめんなさいね。